1875年
長崎県壱岐郡石田村(壱岐市石田)で生まれる
名は松永安左エ門、号は耳庵、幼名は亀之助
福沢諭吉に私淑し、明治22年(1889年
慶應義塾に入学
在学中に福沢諭吉の養子で娘婿の福沢桃介と知り合う
1892年
父、二代目松永安左エ門の死で慶應義塾を退学
1893年
家督を継ぎ三代目松永安左エ門を襲名する
1895年
家業を弟英太郎にゆだね、慶應義塾に復学
1898年
同学中退
同年、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行
1899年
退職
同年、福澤桃介とともに、丸三商会(材木商社)を設立する
1890年
破産
神戸に福松商会を設立
石炭販売で成功を収める
1907年
株の大暴落で破産する
1909年
福岡の市電を運営する福博電気軌道株式会社の設立に参加、専務に就任
1910年
九州電気株式会社設立発起人総代として広瀧水力電気と合併契約を締結、九州電気の取締役となる
九州地方のガス会社10社を合併して、西部合同ガス株式会社を創立、社長に就任
1917年
衆議院選挙に当選
(次の選挙で中野正剛に敗れて落選)
1921年
関西電気副社長に就任
1922年
関西電気と九州電灯鉄道を合併させ、社名を東邦電力と変更
1924年
社団法人日本電気協会会長に選任される
1928年
東邦電力の社長に就任
1929年
所沢柳瀬村に柳瀬山荘を築き、原三渓から譲り受けた、川村瑞賢遺構の茶室「春草盧」を移築する
1934年
論語の《五十にして天命を知り、六十にして耳に従う》から「耳庵」と号する
1937年
講演会で長崎商工会議所主催の座談会の席上、軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言
1940年
東邦電力代表取締役会長に就任
1942年
開戦により、電気事業を国家管理下に置くための特殊法人日本発送電会社が設立され、東邦電力は解散される
(1発電9配電体制)
1946年
柳瀬山荘を収集した美術品とともに東京国立博物館に寄贈
1949年
電気事業再編成審議会会長に就任し、昭和26年(1951年
9電力会社への事業再編(民営化)を実現、「電力の鬼」「電力王」と呼ばれた
1971年
逝去
享年97
益田鈍翁、原三溪と並び、近代最高の数寄茶人としても知られる